【第二番】日本の鉛筆の歴史が生まれた場所

本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿〜四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、三菱鉛筆株式会社の前身「眞崎鉛筆製造所」の創業地に建つ「鉛筆の碑」を訪ねます。本誌『JG』でも数年前に取り上げた場所ですが、ヴィヴィアンさんの手にかかると、また別の角度に話が広がるから不思議です。そして、もはや景色の一部と化した、ヴィヴィアンさんのカモフラージュっぷりも見ごと……。それでは、いきましょう、今月の“迷所”へご案内。

最近、経済紙を賑わせている“ペーパーレスの時代に三菱鉛筆が二期連続で最高益を更新”という話題。三菱鉛筆は自社製造製品以外の周辺文房具から潔く撤退し、高品質な鉛筆や、芯先が自動に回転する「クルトガ」など世界的ヒット商品を開発しているの。従業員の2800人のうち200名が開発者というその研究熱心な社風も勝因みたいね。

そんな三菱鉛筆による、日本最初の鉛筆工場は、内藤神社こと多武峰神社内にあったのよ。佐賀県出身の創業者・眞崎仁六がパリ万博へ行き、初めて鉛筆と出逢って感動したのが、日本の鉛筆の歴史の始まり。仁六は、パリ万博から帰国した後の明治20年(1887年)、この地に渋谷川を動力とした、三連水車付きの鉛筆工場を建てたわけ。その後何度も失敗を繰り返し、「日本製鉛筆一号」を完成させたのよ。その後、工場は大井へ移転したのだけれど、日本の鉛筆の歴史は、まさにこの場所から始まったわけよ。
余談だけれど、作家の稲垣足穂の『一千一秒物語』のなかに、――「昨夜自分は赤いホーキ星が煙突や屋根をかすめて通ってきて、物干し場の竿にひっかかって落ちるのを見た。ところで今朝起きて調べてみると、この赤いコッピー鉛筆が落ちていたのである」――という一節があるでしょう? このコッピー鉛筆というのは三菱鉛筆の商品。三菱鉛筆は月星鉛筆という商標だったこともあるのだけれど、天体を愛してやまない稲垣足穂が、その名から“月星鉛筆”を愛用していて、この鉛筆を作中に登場させたとする説もあるのよ。でも真相は謎。(もしかしたら舶来好きの彼はステッドラー好みだったかも)
ところで、日本初の鉛筆工場があった多武峰神社は、内藤家の先祖藤原鎌足を祀る奈良の神社を勘定したもの。家康は内藤清成に馬で一周出来る範囲の土地を与えると約束したのだけれど、馬は現在の新宿御苑の範囲を走ってすぐに死んでしまったの。その馬を供養するために建てられたのが、駿馬塚と白馬堂で、いまでも境内に残っているのよ。

それにしても……、この辺は本当に静かだこと。戦時中も戦火を逃れて大木が残り、「内藤町の鎮守の森」としてひっそりと荘厳な気配すら感じられるわね。
三菱広報の人に言わせれば「スマートフォンを使いこなす人の方が、従来の筆記用具へのこだわりが強くなっている」とか。そんな時代だからこそ、こういう空間も存在感を増すのかもしれないわね。

関連記事一覧