【第十一番】西向天神社のオンナの歌
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG』67号で紹介した西向天神社に纏わるお話。web限定のエピソードもあり。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
新宿文化センター通りを進み、天神小学校を超えていくと鬱蒼とした小高い丘があるわ。その丘の上には、鎌倉時代に北野天満宮を勧請した西向天神社(にしむきてんじんじゃ)。その名は、社殿が西の太宰府の方を向いていることに由来するの。今回は、ここにある「紅皿の碑(べにざらのひ)」にまつわる、有名な「山吹の里」の伝説を紹介するわね。
ちなみに、この辺りにはたくさんのお寺が今もあるけれど、ほとんどがこの時期に移転させられたものね。新宿通りは、尾根を走っていて、その北側と南側には、谷へ繋がるクレバスがあるけれど、その途中の崖にたくさんの四谷寺院群が今も残っているわ。たいていの墓地は、お寺の奥まったところにあって、各々のお寺の墓地からは、この辺りが複雑な地形ということを垣間見ることができるわよ。
さて、話は「山吹の里」の伝説に戻って、室町時代、武将の太田道灌(どうかん)が鷹狩りに行った際、にわか雨に遭ったときのこと。農家で簑(みの)を借りようとしたのだけれど、そこの娘・紅皿は、簑ではなく山吹の花を一輪差し出したそう。それは、「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」と歌にかけ、“貧しくて、蓑(実の)一つも貸せない”という彼女なりの回答だったのね。道灌は、最初は歌の意味がわからずに腹を立てたの。でも、後にその意味を知り、彼女を城に呼び歌に励んだそう。しかし、それも長くは続かず、道灌は暗殺され、残された紅皿は大変悲しみ、尼になって西向天神社に隣接する大聖院に庵を作ったという……。
また、紅皿にはこんな面白い話もあるのよ。美人だった紅皿は、不器量の継子の欠皿という妹がいて、継母と欠皿の二人に虐められていたの。でも、紅皿は裕福な人と出会い結ばれる。そして、一生幸せに暮らしたそう。こっちは「シンデレラ」や「鉢かづき」と同じ様なお話ね。東洋西洋に関わらず、似た様な話はたくさんあるものだわ。幕末には、河竹黙阿弥がこの題材で歌舞伎の演目を作ったわ。
ところで、西向天神社の下には蟹川という川が流れていたそうね。この蟹川は、新宿二丁目の太宗寺を源流とする川で通称「番衆町の支流」と合流して早稲田鶴巻町の方へ北上していくの。ちょうど川の流れが鎌倉街道と重なるそうね。紅皿も現在の面影橋で太田道灌と出会っているし、川の流れと紅皿の碑は何か密接な関係があるみたい。
西向天神社がある丘からの眺めは、昔から変わらずとても素晴しいわ。小説家・永井荷風が『日和下駄』で、西向天神社を「夕日の美しきを見るがために人の知る所となった」と言っているほど。西向天神社の敷地内にある富士塚越しに見える高層ビル街と、その向こうにある本物の富士山の方向に沈みいく夕日は絶景よ。
また、西向天神社には藤圭子のヒット曲『新宿の女』の碑もあるわ。この場所は“オンナによる歌”に縁があるのかもしれないわね……。