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【第十八番】 槍の名手「服部半蔵」はGペンの名手によって「ハットリくん」へ

本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG』73号で紹介した四ツ谷駅近く、若葉二丁目の「西念寺」。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。

四谷寺院群の中のひとつ西念寺の境内には、漫画『忍者ハットリくん』の題材となった服部正成(半蔵)のお墓と、徳川家康の長男である松平信康の供養塔が、いまもひっそりと境内に残っているわ。半蔵は家康の十六将のひとりで、槍の名手。別名「槍の半蔵」とも呼ばれていたようね。

元亀三(1572)年の三方ヶ原の戦いで、家康は武田信玄に敗れたけれど、そのとき半蔵に助けられ無事に浜松城に帰ってきたわ。この時の功績により、家康から半蔵に長い一本の槍の拝領と伊賀者150名が預けられたわ。それ以降半蔵は伊賀者の総指揮者になるの。

家康が江戸城に入城したあと、半蔵は四谷通り(新宿通り)の西側に住んでいて、だからその場所にはいまも地名や地下鉄駅名として残る「半蔵門」という名前が付いたようね。

信康は織田信長の娘の徳姫と結婚したけれど、徳姫は家康の正室の築山御前と折り合いが悪かったみたい。いまも昔も嫁と姑の関係は難しいわね。また、信康は武田氏との内通の嫌疑をかけられていたそう。嫁姑と内通の件で、信長は家康に長男である信康の切腹を命じ、さらに、妻である築山御前の殺害も命じたわ。

自分の長男と、妻の殺害を表向きは家康の意思に見せかけて、裏では信長が操っていたの。さすが鬼畜信長ね。

半蔵は信康の切腹の際の介錯役に命じられたけれど、震えと涙で任務を遂行出来ず、仏門に入って「西念」と名前を変えたそう。そして、「鬼と呼ばれた半蔵でも主君を手にかけることが出来なかった」として、家康からは更なる信頼と評価を得たそうよ。

当時は、清水谷の辺りに西念寺の前身である安養寺があったけれど、江戸城外濠の拡張工事により四谷の高台に移され、半蔵の没したあとに西念寺という名前に変わったみたいね。

信康の切腹については幾つかの見解があり、信康と半蔵は面識がなかったというものや、家康と信康の不仲説、また、信長が自分の嫡男の信忠より優秀な信康を恐れていたという説もあり、真相は謎。

いまも西念寺の本堂には、半蔵の2m60cm、重さ7.5kgの長い長い槍が床の間に飾られているわ。でも東京大空襲の際に一部が欠け落ちてしまったとか。

この辺りの寺院には、何度も起きた江戸の火災で焼死した町民や岡場所で亡くなった飯盛女たちの無縁仏の墓、関東大震災や空襲で亡くなった市民たちの方々の共同墓が数多く残っているわ。

400年も前の戦国時代の槍と70年前の東京大空襲の爪痕――。四谷界隈の歴史と日本の歴史を垣間見ることができるわね……。

ちなみに、寺の近く(新宿通りのジョナサンの角を曲がった右側)の「甘栗太郎」の場所には昔、八百屋の「山崎商店」があって、その2階に東京に出てきたばかりの漫画家の手塚治虫が下宿していたそうよ。あの有名な「トキワ荘」に移るまでの一年弱ね。

そして、手塚治虫は「トキワ荘」へ。その後、手塚治虫が住んだ「トキワ荘」の同じ部屋に藤子不二雄Aが住んで『忍者ハットリくん』を生み出したみたい。藤子不二雄Aは手塚治虫と知り合ってからハットリくんを思いついたのかしら……。ちなみに手塚治虫には『四谷快談』という異色の短編もあるのよ。

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