【番外編「天龍寺」】今も昔も「時間」に追われる一帯
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、JG(vol.61)で紹介した「追い出しの鐘」のある寺「天龍寺」を詳しく紹介。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
明治通り沿い新宿タカシマヤの向かいにある天龍寺は、徳川家康の側室・西郷の局と父・戸塚忠春の菩提寺として、元々は牛込納戸町に建てられていたわ。
天和三年(1683年)に火災に遭い、この新宿の地に移転。ここは江戸城の裏鬼門としての役割があり、当時はとても重要なお寺だったようね。
このお寺にはいわく付きの梵鐘があり、通称「追い出しの鐘」。当時は上野の寛永寺(江戸城表鬼門)と市ヶ谷八幡と江戸三名鐘として親しまれていたわ。
「梅」の字がプリントされた春の訪れを感じさせる衣装。天龍寺の境内には三種類の梅に囲まれた水琴窟も。
ここは宿場町である内藤新宿のすぐそば。そして天龍寺の裏方には朝日町と呼ばれる現在もホテル街になっている安宿場街があり、この梵鐘は内藤新宿で交遊していた武士たちに朝を知らせる役目があって、「追い出しの鐘」と呼ばれていたようね。また、江戸城から割と遠いため、通常より早めに鳴らしていたのも特徴というわ。これには妓楼とお寺の癒着があったとかなかったとか……。
そして、この梵鐘は茨城の笠間城主・牧野貞長が明和四年(1767年)に寄進したもので、その時に一緒にオランダ製のやぐら時計も寄進されたわ。それはいまも寺内で見ることができるわ。
四脚の脚で作られたやぐらの上に時計が乗せられており、二個の分銅がぶら下がっていて、文字盤は二十四時間制。牧野家の紋章である「三柏」が彫られているのも興味深いわね。このお寺は徳川系だから「三つ葉葵」が寺紋で境内にはいたるところに発見できるわ。当時はこのやぐら時計を頼りに梵鐘は鳴らされていたとのこと。
貞長の祖父の牧野成貞の頃、この牧野家は3千石から約18倍の規模の5万3千石まで、異例の速さで領土を増やしたの。このエピソードは、何度もドラマや映画にもなっている「大奥」にも出てくるわ。
当時の将軍・徳川綱吉に妻の阿久里と次女の安のふたりを召し上げられ、その代償として石高を与えらたという裏話。そして、成貞自身は御側衆(おそばしゅう)といって将軍のプライベート使用人という役職を命じらることに。自分の妻と娘を取り上げられ、自分は近くで取り上げた本人の身の回りの世話をしなければならないという屈辱。もし反対でもすれば自分の藩はいとも簡単に取り潰されてしまう。その後、綱吉の寵愛が柳沢吉保に移ったときはさらに苦悩したとか。
「書籍姫の墓」でも紹介したけれど、成貞は将軍綱吉のあまりにもの傍若無人に耐えかね、牧野家は自分一代で終わらせたいと思っていたとの説も。それで「書籍姫」という架空の悲しい姫を作り出してしまったのかもしれないわね。
さて、この天龍寺の境内には三種類の梅に囲まれた水琴窟があるわ。そのあまりにも澄んだ音色は、新宿の喧噪や明治通りを行き交う車の音も届かない寺の奥から聞こえてくる。この水琴窟のすぐ上にある手水鉢に注がれている水は、水琴窟を通過して、新宿御苑へと流れ込み、原宿のかつての隠田村を通り渋谷川へとつながる源流のひとつ。渋谷川は天現寺あたりから古川となり、浜松町あたりで東京湾へ流れ込むわ。
このあたりからは、まるでNYのエンパイアステートビルディングのような、先が尖っているdocomoビルがすぐそこに見えるわ。建物上部には大きな文字盤のある時計が付いているわ。また新宿南口の建物は「タカシマヤタイムズスクエア」という名前。タカシマヤ広報に尋ねてみたらその由来は、「時と時代の広場」というコンセプトで、「時間」に追われながらも、「時間」を謳歌する都市生活者の24時間をマルチにワイドにカバーする……ということらしいわね(笑)。
「追い出しの鐘」からはじまり、オランダ製の「やぐら時計」、docomo時計ビル、タイムズスクエアなど「時間」に関するものが、今も昔もこの天龍寺一帯にはなぜか脈々と受け継がれているわ。
そして、春の到来をいち早く告げる梅に囲まれて、渋谷川の源流は水琴窟を奏でているのよね。