【第一番】高台に佇む、四谷の総鎮守
本誌でもとびきり異彩を放つ連載「迷所巡礼」がいよいよウェブ版で登場! 新宿〜四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。記念すべきウェブ版第一回目は、ヴィヴィアンさんがかつてその真裏に住んでいたという、四谷の須賀神社。気持ち良い五月晴れの午後、“不死鳥”のような装いで境内に現れたヴィヴィアンさんは、神社に負けない存在感。違和感たっぷり、それでいて、不思議とその風景に溶け込んでいる……、そんな記念写真も必見です! さあ、それでは今月の“迷所”へご案内。
JR四ツ谷駅から東京メトロ四谷三丁目駅辺りの新宿通りは、尾根のようになっていて、もともと「潮踏の路(しおふみのみち)」と言われていたの。かつてこの辺り一面がススキ野原で、秋になるとその姿が大海原を思わせたからという説や、江戸時代以前の四谷若葉一帯が海だった頃、真成院(若葉二丁目)に祀られていた潮踏観音の台座が、潮の満ち干によって濡れたり乾いたりしたからと言う説があるわ。
今回は、そんな四谷の産土神でもあり、総鎮守の須賀神社(元は稲荷牛頭天王合社イナリゴズテンノウシャと言った)を紹介するけれど、以前この神社の真裏に住んでいたこともあるアタシにとって、須賀神社周辺は庭みたいなもの。とても思い出深い場所なの。ここ一帯は若葉から見て崖になっていて、なんといってもその眺めが素晴らしいのよ! 余談だけれど、この辺りには、かつて人形作家のジュサブローさんや、画家の金子國義先生、そしてデビューしたての森進一さん、越路吹雪さんが住んでいたこともあったみたい。
そもそもこの辺りは、島原の乱で功績をあげた日本橋の大名主・馬込勘由(まごめかげゆ)が拝領した地域。そこで彼の地元の、神田明神内の守護人(須佐之男命スサノオノミコト)が祀られることになったわけ。それからしばらく、江戸城の外堀拡張の際には、この敷地に赤坂の一ツ木の鎮守の稲荷が移転されたのよ。そうやって、神田明神内の守護人と一ツ木の鎮守の稲荷がこの場所で合わさり、稲荷天王社と言われるようになったわけよ。これが須賀神社と呼ばれるようになったのは明治時代の頃のことで、須佐之男命が八岐大蛇ヤマタノオロチを成敗した際に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給ったという故事に基づいたものなの。
須賀神社は、万葉歌人などの三十六歌人の絵が納められていることでも有名ね。また、いまでこそ、11月の酉の市といえば花園神社、なんてイメージが強いけれど、かつて須賀神社の酉の市は、花園神社よりも賑わっていたんだから! そういえば、6月1日〜4日には須賀神社恒例大祭ね。このときの須賀神社といったら、東京とは思えないくらい“素朴”な子どもたちでいっぱいになるの。普段はごくごく閑静な高台の境内も、このときばかりはかつての活気を取り戻すわよ!