【第十四番】内藤新宿の仕掛人と盲人マスターのお墓

本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG』69号で紹介した「愛染院」です。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。

新宿通りのスターバックスの横を入り、円通寺坂を道なりに左に下っていくと、若二商店会という古い商店街に続いていくわ。この辺りの地形は深い谷の道になっていて、現在の若葉公園にはかつて円応寺があり、その境内には源義家が馬の鐙を落としたという伝説の池があり、鐙が淵とも言われていたみたい。 

いまは小さな商店街だけれども、以前その筋は鮫河橋谷と言われていたの。低湿地ゆえ一度雨が降ると水浸しになってしまうことから、「雨橋(さめがはし)」と呼ばれる様になったと言われているわ。もしくは、鮫がこの河を遡ってきたからという節もあるの。谷はJR総武線を括り、迎賓館の前庭の谷地を経て、赤坂見附の外堀まで続くわ。その谷を形成した河は赤坂川と言われていて、水源は円通寺坂中腹の日宗寺ね。

江戸時代、幕府の土木政策の一環として外堀が作られて、赤坂川は利用されていたみたい。そしてその土木工事の際に赤坂見附にあった神社群が対岸の四谷若葉の高台に移転された。東福寺、西念寺、宗福寺など、右も左も四谷寺院群が連なっているわ。その中に、愛染院があるの。愛染は、新宿通りを東福寺坂(天王坂)で曲がり、ずっと坂を降りていくその中腹。以前は、その坂の下る直前に文化放送があったわね。その愛染院には高松喜六のお墓や検校・塙保己一のお墓がひっそりと建っているわ。

高松喜六は元浅草の名主のひとり。日本橋から始まった甲州街道が最初の宿場町の高井戸まであまりにも遠いので、その中間に新しい宿場街「新宿」の開設を幕府に願い出たの。それが内藤新宿(元禄10年)の始まり。喜六を始め当初は5名の浅草商人であったけれど、後にもう5名加えられ、「元〆拾人衆」と呼ばれる様になったわ。これらの浅草商人たちが多額の上納金を払ってまで、新しい宿場町「新宿」を開設したかった理由は、どうやらそこでの商売の利益を上げられる大きな確信があったみたい。当時の彼らの読みが見事に的中し、そこから繁華街・行楽地としての「新宿」が始まり、今日の巨大都市新宿が形成されたといっても決して過言ではないわ。

もうひとり、塙保己一は盲人の最上級の職の検校で、その中でも最も地位の高い惣検校だったわ。中世では平家琵琶を語ったり、国学の先生など盲人ならではの社会的な職業が用意されていたのね。
塙保己一は平安時代の宇多天皇以来の日本の史料を編纂した大著『群書類従』と『続群書類従』を編集したわ。その内容は歴史や文学、政治、経済、風俗、芸術、音楽、遊び、戦争、衣類、食品……とありとあらゆるジャンルを網羅していたようね。今で言う百科事典かしら。国学・歴史学への研究に多大な貢献をしたといわれているわ。その規模はあまりにも膨大で、全部で666冊にも及び、41年もの歳月がかかったそうよ。『続群書類従』は彼が生前版が出出来あがらず、出版されたのはなんと彼の死後100年後となったわ。版木は20×20文字の400字詰めに統一され、それが後のいわゆる「400字詰め原稿用紙」の元になったようね。かのヘレン・ケラーも幼少の頃から塙保己一を手本に生きてきたそうよ

新宿通りを挟んで、四谷荒木町近辺は明治には花街として栄えていたわ。舟橋聖一の小説『女めくら双紙』。この小説は、盲目の女按摩師が荒木町を舞台に展開する話。また、JR四谷駅近くには日本盲人職能開発センターが。四谷は昔から目が不自由な方と所縁が深い街でもあったのかもしれないわね。

関連記事一覧