【第二十一番】盥(たらい)回しの数奇な馬水槽~友達の友達は……~
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG×STUDIO ALTA』最新76号で紹介している新宿東口・アルタ前の広場にある「みんなの泉」。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
現在のルミネエスト新宿は、昭和39年(1964年)東京オリンピックの年に建てられ、もともとは「新宿ステーションビル」と言ったみたい。ちなみにそのころ、JR新宿駅は「新宿民衆駅」と言ったわ。ちょうどその時に、現在の新宿東口のアルタ前広場に移設されてきたのが、この重厚な「みんなの泉」。
もともとは、東京の上水道の“育ての親”である中島鋭司博士が、明治34年(1901年)に、日本の水道事業開発のため欧米諸国に視察に行った際、ロンドン水道協会から東京市に寄付された水槽。
最初は、有楽町の東京市役所前に設置されていて、実際に給水されていたようね。その頃の東京は、まだ荷車や馬車が主な交通手段で(ちなみに日本で一番古い鉄道は、明治5年新橋~横浜間のもの)、馬や人間もよく利用していたそうよ。そのうちに自転車や自動車が普及し、大正7年(1918年)に旧水道局守衛前に移設。そして、大正12年の関東大震災で被害にあい、使用できなくなり、長い間放置されたわ。
そして、昭和32年(1957年)には、「みんなの泉」は淀橋浄水場に移されるも、昭和39年(1964年)に淀橋浄水場自体が東村山に移設。奇しくも東村山の村山・山口貯水池設計は先述の中村鋭司博士によるもの。博士とイギリスとの交友により贈られた水槽は、博士の功績による浄水場設計により、この地に移されて現在に至るわ。現在はモニュメントとして設置されているの。
この赤大理石の「みんなの泉」の元の名前は「馬水槽」。オモテ面の一番上の広い部分が馬の高さに合わせた馬用。下の方の小さい蛇口は犬や猫用。そしてウラ面が人間用の水飲み場。蛇口が獅子の形をしているところが、いかにもロンドンぽいわね。これは世界で3個しか現存していないとっても貴重な水槽なのよ。動物も人間もみんな同じ水源から仲良く飲みましょう、という平和的な意味が込められているようね。
終戦後、このすぐ近くにあるタカノフルーツパーラーや中村屋のあたりには新宿の闇市を仕切る、尾津組の占拠する建物があったそう。(終戦直後の混乱期にこの辺りにいた実在のヤクザ・石川力夫のお墓も新宿西口の常円寺に今もひっそり現存。その数奇な人生は映画『仁義の墓場』にもなり、「名所巡礼第八番」でも紹介)。その闇市の建物と新宿駅の間の一帯の空き地(馬水槽のちょうど裏手)は、「新宿ハーモニカ横丁」と呼ばれていたわ。間口の狭いまるでハーモニカの吹き口のような小さなバーがひしめき合っていたからよ。出来の悪い粗悪なカストリ焼酎が出回っていて、「カストリ文化」が生まれたのものこの頃。「新宿ハーモニカ横丁」の街並みの名残が西口の「思い出横丁」なのよね。
紀伊國屋書店創業者の田辺茂一の小説『ハーモニカ横丁』でも、東口一帯のことが描写されているわ。阿佐ヶ谷会や鎌倉文士、学者、編集者、画家などがたくさんこの辺りにたむろしていたそうね。その中には江戸川乱歩や井伏鱒二、井上靖、柴田錬三郎、吉行淳之介、坂口安吾、三好達治、草野心平などそうそうたる文士が毎晩酒と議論を交わしていたみたい。
戦後、様々な人間が安酒を飲んで交友を交わしていた「新宿ハーモニカ横丁」。そしてその時代の後、東京オリンピックの年に馬と犬・猫、人間が仲良く飲むことを目的とされた「みんなの泉」がこの地に移転。『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「友達の友達はみな友達だ……」は、この地では昔から当たり前のことだったのかもしれないわね。