【第二十番】宿場町内藤新宿の哀しい縮図
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG×STUDIO ALTA』75号で紹介した新宿二丁目の「成覚寺(じょうかくじ)」。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
成覚寺は靖国通りに面した小さなお寺だけれども、江戸四宿のひとつ内藤新宿の特徴や歴史を、あまりにも如実に垣間見ることが出来るわ。
江戸末期、洒落と風刺を織り交ぜた黄表紙と呼ばれ、一斉を風靡した雑誌風の書物があったわ。恋川春町も当時代表する黄表紙作家のひとり。境内には彼のお墓もひっそりと建てられているわ。代表作は『鸚鵡返文武二道』で、松平定信の文武奨励策を風刺したもの。絵は妖怪画で有名な鳥山石燕に学び、文才も画才もあった今でいうマルチアーティストね。
山東京伝や式亭三馬、十返舎一九など、この時代の黄表紙作家を江戸の粋文化の源泉と見る研究家もいるわね。でも、あまりにも内容が過激で反社会的であったりして、幕府からお咎めを受けてもいたようね。京伝は幕府から摘発され、手鎖50日の刑を受けたそうよ。
一方、海の向こうの約120年後のイギリスロンドン。「イエロー・ブック」という、やはり挿絵入りの文芸誌が発行されたわ。19世紀末のロンドンを象徴する最も退廃的な雑誌として、あまりにも反社会的だと賛否両論が巻き起こったの。オーブリー・ビアズレーやアーサー・シモンズなどが編集に関わり、オスカー・ワイルドが男色の罪で逮捕されると、ビアズレーも編集から追放されたわ。
奇しくも同じ黄色の表紙の雑誌。黄色という色は社会を不安にさせる混迷の色彩でもあるのよね。サッカーのイエローカード、黄色信号というのも同じかもしれないわね。
そして、ロンドンの世紀末美術には、このころの浮世絵の影響が色濃く見て取れるのも興味深いわ。それは新奇の美を求め、正常より異常を尊び、人工性を賛美する傾向で、幕府や社会などの時の政治家が最も恐れるものとも言えるのかもしれないわ。江戸時代の黄表紙や浮世絵、またロンドンの世紀末芸術が現代の文化にも多大な影響を与えていることも興味深いわね。
また、新宿通りを渡って、追い出しの鐘の天龍寺の裏手。現在も木賃宿の雰囲気を残す新宿四丁目近辺は、もとは旭町と呼ばれていたわ。そこに立っていた「旭地蔵」が、いまは成覚寺内にあるの。
台座には十八名の戒名が刻んであり、そのなかには七組の男女の名前も見つけることができるわ。内藤新宿で身を売っていた飯盛り女たちとそこに通っていた武士たちで、彼らは近くの玉川上水に心中したわ。彼らの供養のための地蔵というわけ。
そして「子供合埋碑」も境内に建てられているわ。明治三十年頃まで飯盛り女たちの死体が投げ込まれる風習があった成覚寺。だから「投込み寺」と呼ばれてもいたようね。彼女たちの待遇は犬猫にも劣り、楼主や店主にこき使われ、最後には着物や髪飾りも剥ぎ取られ、お腰一枚の姿で投げ込まれたこともあったというわ。寺の手が廻らないときは、鴉が群れをなし、夜には火の玉が出没したそうよ。無数の火の玉がこの寺の名物だったみたい。「子供」というのは実際の子供ではなく、「遊女」のことで、遊郭や旅籠の主人の雇われの身だったという意味のようね。
色恋や快楽、悲哀、不安、そして怒り……。それらを洒落と風刺で包み、ときの政治家を文学や芸術で批判する反骨の時代。江戸文化の粋と悲哀。すべてがこの小さい成覚寺の境内には詰まっているみたいね。