【第十九番】かつての川筋で、遊女が引き寄せる女優たち
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG×STUDIO ALTA』74号で紹介した新宿二丁目の通称「百合通り」。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
東京都内には、いまでは道路や小さな公園に形は変えてはいるけれど、かつて川が流れていた「暗渠(あんきょ)」や池、湿地だった場所がたくさん存在するわ。その暗渠やかつての池があるところに神社やお寺が建てられていたり、門前町のような酒場ができていたりするのよね。だから現在もバーや飲み屋がたくさんある一帯というのは、かつて水があった場所だった可能性が高いわ。
また、江戸時代の更に前の中世の古道などもその暗渠に沿って作られていたりして、いまも都会のなかに残るちょっと怪しいカーブを持っていたり、蛇行する小道というのは暗渠かそれと並行に走っていた古道の場合も多いわね。
新宿にもたくさんの暗渠があるわ。かつて、古刹太宗寺の裏の新宿二丁目公園(現在工事中)の敷地内にあった池を水源として、通称「番衆町川」が北へ流れだしていたわ。現在新宿二丁目の中でもレズビアンバーが数多く点在する小さな筋道の通称「百合通り」。その筋がまさに「番衆町川」の暗渠なのよ。
いまでも昼夜問わず何となく湿り気があり、そこの一帯だけ植物が異様に成長して青々しているのが分かるわ。アスファルトや路肩にも緑色の苔が生えていたり、その暗渠の上にあるバーは年中湿り気がありそうね。地下だけではなく地上にも水気が今もあるのよ。その川筋はひときわ緑が多い成覚寺の際を通り、靖国通りを渡って更に北上して、西向天神社の下を通るわ。
そしてもう一本、歌舞伎町のど真ん中の花道通りを流れていた蟹川の暗渠と天神小学校のあたりで合流し、戸山公園を通過して早稲田大学の方へ流れ、最終的には江戸川橋で神田川に流れていくの。
新宿二丁目はいまは世界的なゲイタウンとして知られているけれども、もともとは江戸時代は内藤新宿という宿場町。幕府公認の吉原とは違って岡場所(飯盛り旅籠)と呼ばれていて、飯盛り女という名前の遊女がたくさん居たわ。明治に入って貸し座敷と呼ばれ、その色町の性格は変わらなかったみたい。その後、大正から昭和は「新宿遊郭」と呼ばれインテリ層がたくさん集まるモダンな遊郭だった様ね。青山二郎の青山学院(通称:青山アパート)や戦後青線(風俗営業法不許可の特殊飲食店)と呼ばれていたゴールデン街に文化人が好んで通っていたのも明治の頃からの傾向だったようね。そして、新宿二丁目一帯は戦後赤線地帯から60年代から80年代にはヌードスタジオやソープランドがたくさんある地域となり、その後ゲイタウンに変貌していったわ。
かつて遊郭がたくさんあった場所に川が流れていて、のちに川は埋められ、現在はゲイタウンのかつての川だった湿り気のある一画にレズビアンバーが点在。いまは有名女優や女性歌手がお忍びで通い、ときどき目撃されている地帯。かつていた遊女に引き寄せられて来るのかもしれないわね。
また、原宿竹下通り裏方にも「ブラームスの小径」と呼ばれる小洒落た小径があるわ。こちらは隠田川の跡で、いまは暗渠。川の跡の筋道が、いまではステキな小径と呼ばれる法則が、東京にはあるのかもしれないわ。