【第十五番】鬼も子どもも歓迎の神社
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG』70号で紹介した歌舞伎町の「稲荷鬼王神社」です。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
新宿区役所通りをミスタードーナツから入ってずっと進んでいくと、職案通りに出る手前右側に「鬼王神社」があるわ。ここは日本で唯一“鬼の王”の名の付く、鬼を祀った神社で知られているの。日本は江戸時代よりさまざまな信仰の習合がなされていて、この鬼王神社もその例外ではなく、たくさんの信仰が同じ境内に共存しているわ。
宝暦期(1752年)に紀州熊野から鬼王権現が勧請されたのが始まりで、天保期(1831年)に地元の稲荷神社と合祀し、鬼王神社となったとのこと(なのでこの神社には稲荷紋と巴紋のふたつが存在)。本元の紀州熊野は現在は存在せず、“全国一社福受け”の御名もあるそうよ。鬼王神社はもともと湿疹や腫物はじめ諸病気に豆腐を献上すると良いとされ、明治はじめくらいまで社前には豆腐屋が軒を連ねていたみたい。地誌『新編武蔵風土記』や永井荷風の作品にも鬼王神社の事が著されているそうよ。
そして、ここでは節分には珍しく「福はうち、鬼はうち」と言うらしく、大祭の9月18日には鬼の面が掘られたお神輿が出るの。
また、大久保(大窪)と新宿辺りは紀州熊野との繋がりが強く、西新宿の熊野神社を建立した中野坂上にある成願寺の鈴木九郎(中野長者伝説/新宿の開祖。新宿の「角筈」というのは彼が 鹿の角杖を持っていたという伝説から来ているとか……)も紀州熊野出だといわれていて(鈴木の姓は熊野出身が多い)、その繋がりも興味深いものがあるわね。
熊野の鬼王神社と地元氏神の稲荷神社、そして松平出雲の守邸にあった三島神社(恵比寿神)も、嘉永期の火災によってこの地に移ってきたみたい。そのため、10月20日には新宿えびす祭として、べったら市が出るわ。江戸時代に隆盛を極めた富士山信仰である浅間神社も明治期に合祀され、境内には富士塚があるのよ。
天保期に加賀美家から移り置かれた鬼の形をした手水鉢(ちょうずばち)も設置されているわ。伝説では文政3年、深夜加賀美家の庭で水浴の音がし、主人がいぶかしく思い、その人影を斬りつけたとの事。昼になると鬼の手水鉢には大きな切り傷が残されていたのみ。その後家族に病人が絶えず、困った主人はその手水鉢と斬りつけた家宝の刀(鬼王丸)を鬼王神社に奉納したそう。しかし翌年その鬼王丸は何者かに盗み去られ、いまだにその所在は分かっていないらしいわね。そして、その横には昭和3年に作られた霊水が湧き出る井戸が現存しているわ。
江戸時代「鬼王」という名の神社を勧請するのに抵抗がなかったのは、平将門公(幼名:鬼王丸)と所縁のある土地であったという節もあるわ。職案通りから税務所通り方向 へ、新宿村スタジオの裏辺りは蜀江(しょっこう)坂と呼ばれ、平将門(もしくは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたからだと言われているの(もしくは 三代将軍家光が鷹狩りの際にこの地の紅葉の美しさが錦のようだと賞賛したとの節も……)。
職案通りには「アスカクリニック」と「あすか信用組合」があって、かつては「飛鳥ホテル」なんていうものも(現在は閉館)……。この辺りのことも現在調査中よ。
また、この鬼王神社と職案通りの間にはもともと映画館があったため、大祭のときには現在の神主さんの計らいによって映画のポスターをたくさん展示しているの。
すぐ裏のラブホテル街のなかには鈴木三重吉が創刊した幼児文学「赤い鳥」社があったそうで、当時は芥川龍之介、泉鏡花、谷崎潤一郎なども寄稿していたみたい。大祭では「赤い鳥」のバックナンバーのコピーが境内に展示されていて、神主さんに交渉すれば、縮緬(ちりめん)で出来た原本も拝読できるわよ!
神主さんは大変ユニークな方で、見掛けたら話かけてみたら良いわ。いろいろと教えてくれるはずよ!