【第十六番】文壇・高等遊民の一大サロン「青山学院」
本誌で異彩を放つ連載「迷所巡礼」のウェブ版。新宿~四谷歴ウン十年のヴィヴィアン佐藤さんが、毎月その嗅覚をたよりに、エリア内の不思議な“迷所”の歴史をたどっていきます。今回は、タウン誌『JG』71号で紹介した新宿一丁目の「花園東公園」。かつて文豪が数多く住んでいた「花園アパート」があった場所。今月も行ってみましょう。さあ、“迷所”へご案内。
いまの花園東公園には、昭和初期、装丁家で批評家のカリスマ・青山二郎を中心に、詩人の中原中也夫妻や、批評家の小林秀雄など文壇・文化人が数多く住んでいた「花園アパート」があったわ。通称、「青山学院」。新宿二丁目と富久町のあいだの裏、いまでは閑静なマンションが乱立しているなかにポツンとそこだけ公園になっているわ。
昭和初期、新宿二丁目はまだゲイタウンではなく、「新宿遊郭」と呼ばれ、成覚寺周辺には芥川龍之介の父親の経営する乳牛の牧場「耕牧舎」があって、いまとは大分風景が異なっていたみたいね。その「青山学院」には三好達治、大岡昇平、河上徹太郎、永井龍男らも集い、のちに宇野千代、白洲正子らを生み、彼らは「高等遊民」とも呼ばれていたわ。
いまの日本の文学、美術、骨董などあらゆる文化の礎になった人たちがすべて集結していたといっても決して過言ではないわ。
そのアパートには当時流行したカフェーの女給さんたちも多く住んでおり、文士たちとは全く毛色の違う、けれども時代をよく映した人種が数多く住んでいたようね。
青山二郎は、東大出の初任給50円の頃に、母親から500円もの小遣いをもらっていたけれども、母が亡くなり生活に困窮して、ここに移り住んできたわ。そして最愛の妻と離婚。度重なる自殺未遂。彼は泳ぎが上手すぎて、入水自殺をしようにも死ねなかったというエピソードも。いつも飲み歩き、借金を重ね、銀座の鳩居堂の罫紙に細かに借金や利子まで書き込んでいたみたい。
でも青山の居間には肘掛け椅子やソファーがあり、バッハやモーツアルトのレコードが回っていていつも優雅な空気が流れていたようね。
青山二郎は小林秀雄にして、「僕たちは秀才だが、あいつは天才だ」と言わしめたわ。また中原中也が「二兎を追うものは一兎も得ず」と言ったときに、「一兎を追う事は誰でもするが、二兎を追う事こそが俺の本懐なのだ」と。白洲正子は青山二郎の事を心から尊敬していて、「何もしなかった天才」と称した。青山の有名な言葉のなかに「人が覗(み)たれば蛙に化(な)れ」というものが。「俺だけがこの器の良さが分かる。人は蛙と見てくれれば良い。外見に惑わされず、本物のなかの本物を発掘する」というのが青山の志したことだということね。
新しい時代の文化人の一大サロン。大人の高等な文化の遊び場だった「青山学院」の影も形もいまはないわ。色とりどりの子供の遊戯が乱立した子供のための公園にが残るのみね。